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20200106
世界から
ジム・ボールドウィン博士、逝去

Baldwin獣医とは、蓮見のTEVIS初出場の時に知り合い、その後も親交を深め、照月湖での最初のCEI3*以来、何度も来日していただきました。

当時のFEIの獣医師定年制度(75歳)が適用されたため、2013年の2回(2月の伊東、6月の照月湖)の来日が最後となりました。

新年早々に、彼の逝去のニュースが入り、本当に残念です。このニュース記事にもあるように、アメリカをはじめ、世界中のエンデュランス仲間のシンボルでした。

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Endurance.Net:USAニュース
2020年1月1日水曜日

ジム・ボールドウィン博士の訃報

悲しいニュースをお伝えしなければならない。多くの人に愛されたセントラル・リージョンの獣医師(それだけでは言い尽くせないが)、ジム・ボールドウィン博士が、長い闘病の末に亡くなられた。葬儀や記念基金についての詳細は、今後公表されるだろう。

2019年5月のエンデュランス・ニュースの記事をここに紹介したい。ボールドウィン博士が2019年のAERC大会でAERCの殿堂入りを果たした際のものである。(トロイ・スミス)


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獣医学博士ジム・ボールドウィン
by レスリー・ブラウンと仲間たち

ジム・ボールドウィンDVM(AERC#7205)は、1938年9月12日にオクラホマ州クレアモアの郊外ラジウムタウンで生まれた。父が馬をリセールするトレーダーだったので、ジムも、長じては兄弟と一緒にランク・ホース(格付け馬)に乗り、馬の調子を整えていた。1956年に高校を卒業、高校の恋人ジャネットと結婚した。14年後に娘リサが誕生する。

17歳で州兵に加わり、しばらくは片手間仕事を続けた。Cal Poly(カリフォルニア州立工科大学)に通って馬に蹄鉄を打つ方法を学んだりしたが、もっと勉強したいとの思いから、ジャネットが働く傍らで大学に行くことにした。オクラホマ州立大学の獣医学校に願書を出したが受け入れられず、陸軍に入隊、士官候補生学校に行くことになった。

フォート・ベニングでベトナム戦争従軍の準備中に、通知が届いた。獣医学校に入学できたのだ!従軍命令をキャンセルし、学期の2週目から学生生活を開始した。

1969年に獣医学校を卒業後、ニューヨークのベルモントパーク競馬場で働き、リヴァリッジやセクレタリアトといった高額馬と出会った。ベルモントで数年間働いた後、オクラホマに戻って動物クリニックをいくつも開業したが、いずれも非常に繁盛し、一時は獣医60人を雇うまでになった。ジムとジャネットは、アイオワ州でコギンズ・テスト(馬伝染性貧血の免疫拡散試験)のコースを作り上げ、コギンズ・テストを実施する民間のラボとしてオクラホマ州の二大ラボのひとつになった。1979年頃、ジムはフルタイムの獣医師をリタイアし、自分のクリニックのすべてを売却した。

引退後まもなく、45日間の馬の獣医の仕事のためにドバイに招待された。結局この仕事は、最先端の新しい馬の病院での7年にわたるアドベンチャーになった。ジムは世界を旅し、砂漠で生まれた初のエンデュランス・ホース専属の獣医師チームの一員となった。1年のうち6か月はドバイ・チームと旅行し、残りはオクラホマに帰って過ごした。ドバイにいる間は毎日乗馬し、スティアローピング(投げ縄で牛を捕える競技)大会を開催しさえした!

1980年代半ば、ジャンヌ・ウォルドロンDVMは、オールド・ドミニオン・ライドの獣医師としてジムを雇った。これが彼のAERCの獣医師キャリアの始まりである。AERC競技会獣医師として、ジム・「自分の母親さえ失格させる(“Pull His Own Mother”)」・ボールドウィンというニックネームを付けられた。彼はオールド・ドミニオンで数年連続で1人のライダーを失権させた。一度はゴール後だった。彼女は怒って、自分で出場してゴールしてみろ、と食ってかかった!彼は帰宅して、自分の馬バグズウィル(AERC#9579)の訓練を始めた。ジムとバグは1990年オクラホマ州のクーガー・プロールで50マイルを完走したが、彼には、バグが100マイル完走の馬ではないことがわかっていた。

マシュー・マッケイ・スミスDVMが、自分の馬をリースして次のオールド・ドミニオン・ライドに出るよう、ジムを説得した。競技会前夜、馬たちは1つの囲いに一緒に入れられ、どうやらキック大会をやらかしたらしかった。翌日に競技会に出られるような馬は1頭もいなかったのだ。同じ年、マギー・プライスはジムの背中にゴム製の猿を引っ掛け、完走するまでそれをはずしちゃだめよ、と言った。その挑戦を受けて立ち、ジムはオクラホマに戻って100マイル完走できる馬を探し始めた。

ジムのクライアントに、自分のアラビア馬を売りたがっている人がいた。馬の顔が不気味だったので、オーナーは馬を怖がっていた。ジムはそのゲルディング(去勢馬)に数回乗ってみたが、買う前に、オーナーが売るのをやめてしまった。うまく慣らされていない馬を売って誰かをケガさせたらまずい、と思ったのだ。

馬を買う決心をしたジムとジャネットは、オーナーの家に行って辛抱強く交渉し、馬がジムを殺すことはないと保証して、ようやく売ってもらった。翌日、ジムは馬を連れに行ったが、もちろん馬はトレーラーに乗ろうとしなかった。さらに交渉と説得を重ねた末に、馬を乗せることができた。この栗毛の人慣れしない「グージーリトルシング」が、グース(AERC#9580)として知られることになる。ジムは水曜日にこのゲルディングを連れ帰り、次の土曜日には初めてのエンデュランスに引きずっていった。ジムは、「馬をテストしてアスリートかどうかを判断する」ために、1ループだけライドした。グースはアスリートそのものであり、さらに重要なことに、信頼できることがわかった。1990年、ジムとグースはミズーリ州ジョー・テート・メモリアルで最初のエンデュランス・ライドを完走し、1991年に初めてのオールド・ドミニオン・ライド(彼らの100ライドの2番目)を完走した。

ジム(と家族と友人)は、12年間グースに騎乗して競技会に出場した。グースのAERC記録は、エンデュランス5,405マイル、105スタートと98ゴール、9つのBC、LD(Limited Distance=限定距離)ライド175マイル、および11 100マイルの完走、である。

1995年、ジムは初めて出場したテヴィス・ライドを完走した。ジムと評判の悪いグースは、21:48で128着だった(196人のライダーがスタートし、129人が完走した)。1998年、テヴィスDNFクラブに参加した。獣医師スタッフとしてテヴィスに初めて参加したのは1997年、以降スタッフ参加は17回に及んでいる!
ジムと妻のジャネットは、長年にわたって続いているセントラル・リージョンのライド2つの創設者である。1993年にはインディアン・テリトリー・ライド(13年間走った)を、2005年にはシーズン・ファイナル・ライドを創設した。シーズン・ファイナル・ライドを手掛けた唯一の目的は、そのシーズンの最後のライドを提供すること、だった。
ライダーは最初の3ライドは亀のように進み、その後ライドごとに上昇していくことを目標にすべきだ、というのがジムの信念である。彼はすべての人にこうアドバイスする。「トレーニングすれば、馬はライドで進んで走る。初ライド、LDライド、ループを1つずつ進みなさい」と。

ジムはよく「1番でゴールするためには、まず完走しなければならない」と言う。また、エンデュランス・ライドには2つの勝ち方がある、「スピードで勝つか、粘り強さで勝つか」だ、と強調する。ライドでよく言う言葉がもうひとつある「楽しみなさい!」。

ライドのお気に入りの場所は、ひとつはミネソタ州のセント・クロス国立公園、これは冬のスノーモービル用にきれいに整えられたトレイルがあるからで、もうひとつはウエスタン・ステート・トレイル(テヴィス)だ。テヴィスは心の中で特別な場所を占めている、と彼は言う。

ジムは、2018年に80歳になった。最初のオールド・ドミニオン・ライドから、引退を発表した2018年のシーズン・ファイナル・ライドまで、28年以上にわたってAERCライドで獣医師の仕事を果たしてきた。

1992年にAERC理事会メンバーとなり、2004年まで務めた。いくつものAERC委員会メンバーを引き受けた。獣医師委員会、クレーム処理委員会、トレイル委員会、競技会委員会など、複数年にわたって多くのAERC委員を務めた。

ジムは、20年にわたってエンデュランス競技に参加し、117のライドを完走し、5,300エンデュランス・マイル、675 LDマイル、10のBCという実績を積み上げた。 ライドの獣医師スタッフとして世界中を旅した。賢く機知に富んだ人であり、AERCの殿堂入りする地位に真にふさわしい人物である。






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